関金の民話・伝説


関金には、多くの民話・伝説があります。
その中でもよく知られている民話・伝説を紹介したいと思います。

▼ 関の地蔵さん
▼ 弘法大師とえぐ芋
▼ 矢止めの荒神と矢送り

関の地蔵さん

 地蔵院は昔から開運巡礼「関の地蔵さん」の愛称で全国に有名です。また、近郷の善男善女によって古くから尊崇され、親しまれてきました。
 弘法大師の法力によって霊泉が湧き出したという由緒とともに、古来から当国きっての古刹で、その縁起によれば、本坊の祖、孝謙天皇の御代、天平勝宝8年(756年)行基菩薩の開創に始まると伝承されています。広い境内には国の重要文化財に指定されている「木造地蔵菩薩半跏像」のほか、美術品、壁画、お地蔵さん、御堂などがあります。
関の地蔵さん
 
    「木造地蔵菩薩半跏像」

弘法大師とえぐ芋

 ・・・・・今から、1250年前のことである。ひとりの老婆が、関金宿(湯関村)の湯谷川で芋を洗っていると、みすぼらしい身なりをした一人の旅の僧が通りかかった。旅に疲れたとみえるこの僧は、たいそう腹をすかせていたのか、
 「もし、お婆さん。その芋を少しわけてくださらんか」と、声をかけた。
 顔をあげた婆さんは、旅の僧があまりにもみすぼらしかったので、返事もしないで芋を洗っていた。
 「のう、お婆さんご無心じゃがの。腹がすいて・・・」といいかけるのを、おさえつけるように、
 「この芋はなあ、見かけはうまそうなけど『えぐ芋』といって、初めての人には口がいがむほどえぐうて、とても坊さんの口に合うものでは…」
 よくばりな婆さんは、ていよく断った。
 「ほう、えぐ芋と言うのか・・・口がいがむでは助からぬ、いやおじゃまさま」
 すげなくことわられたが、旅の僧は気にとめるでもなく笑みを残し、静かににその場を立ち去った。その笑みが、まるで相手の心を見抜いているように思われて、婆さんはいたく癇(かん)にさわった。坊さんの後ろ姿にするどい口調で、
 「何がおかしいんだ、乞食坊主めっ。こんなうまい芋を、お前なんかに食わせてたまるか」
 婆さんは、坊さんへのつらあてのように、芋をかじった・・・。
 ところがどうしたことか、まさに舌もまがるほどえぐい。婆さんは顔をしかめ、芋を口から吐き出してしまった。そんなはずはないと、ほかの芋を口にしてみるが、次の芋も、次の芋も・・・
 「こんなはずはない、こんなはずはない」
 婆さんは気が違ったようになって、残った芋を全部谷川に投げ捨ててしまった。

 ― 旅の僧はその夜、村の宿坊に泊った。
 
 翌朝、谷川で顔を洗っていると、冷たい流れの中に湯けむりが立ち、ほのかなぬくもりがあることを感じた。僧が霊感により、泉源の位置を示し錫杖(しゃくじょう)を谷川に投げ込んだその場所を村人が掘ってみると、温泉がこんこんと湧き出した。
 それは、川底の砂粒まで見分けられるような、それこそ女人が入浴すれば、肌を覆わなければならないような、無色透明のきれいなお湯であった。
 旅の僧は、宿坊の住職の請いをうけ、この地を訪れたしるしに錫杖を境内に立て、次の巡錫へと旅を続けたという。

 旅の僧は、諸国巡礼中の弘法大師であったといわれている。僧が残した錫杖は、やがて芽をふいて巨大なハネリの木となったが、昭和の初めに切り倒された。現在では、切り株を残すのみとなっている。
 婆さんが投げ捨てた芋は、今でも谷川に自生しており「関のえぐ芋」として知られている。
                                      
出典:旅のつれづれに
関のエグ芋
                   「関のえぐ芋」
エグ芋イラスト

矢止めの荒神さんと矢送り
 大昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、西国平定のために、伯耆(ほうき)の国瀬戸の港に上陸し美作(みまさか)の国への道すがらのことです。
 ある日、弓矢を持って、伯耆と美作の国ざかい、矢筈山(やはずがせん)に登りました。その山頂には唐王権現(とうおうごんげん)という石祠(ほこら)と石塔が、巨大な岩の上に立っていました。
 この岩は高さが二丈五尺(約8メートル)、幅は一丈八尺(約6メートル)もあり、この巨岩の上に立った尊(みこと)は、弓を満月にはり、「この矢のとどくかぎり、凶徒(きょうと)や悪魔(あくま)は退散して、我が守護の地となれー。」と念じながら矢を放ちました。矢は二里(約8キロメートル)も遠い生竹(なまだけ)まで猛烈な勢いで飛んでいきました。
 ものすごい音をたてながら飛んできたこの矢を、素手でサッとうけ止めたのは、この地方を治めていた生竹の荒神さまでした。荒神さまは、この予期しなかったできごとにびっくりしながらも、この矢をつくづくながめ、「これはみごとな矢だ。高貴なお方がお放ちになったものにちがいない。」と村人に語り、その矢の飛んできた方向の、矢筈山に向けて丁重に送り返しました。川をのぼり、村を越え、矢は巨大な岩の上の権現さんの石祠に送りとどけられました。
 それからは、矢をうけとめた荒神さまを「矢止めの荒神さん」として、あがめまつり、今も小さな社が小鴨川の左岸の岩の上に建立されてまつられています。
 そして送りとどける道しるべとなった川を「矢送川」その一帯の里を「矢送」といい、弓を射た山の峠を「弓張り峠」その小さな里を「矢櫃」(やびつ)と呼ぶようになりました。
 さらに送りとどけられた矢は、今でも矢送神社の宝物となっています。またこの矢を納めたと伝えられる櫃(ひつ)の形をした巨大な岩の、櫃蓋(ひつぶた)と思われるあたりから、白蛇(はくじゃ)がでるというので、村人たちは、神の使いとして大切に保護していたそうです。
 また、尊が弓を射たのにちなんで、弓張り峠といっていたのが、いつのまにか弓挟り峠(ゆみばさりとうげ)となり、そして今の「犬挟峠」(いぬばさり)となったのだといいます。
                                     
出典:風土記 せきがね
矢止めの荒神さんと矢送り





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