第3章 4ローターのさらなる進化


ちょっと時代背景を・・・(1990年代のGr.C)

90年代を迎え,競合ライバル達は,さまざまな進化を遂げました。Gr.Cカーは今までのデザインを覆すコンセプトの車が数多く登場しました。

メーカーの生き残りをかけた市販マーケット戦略のひとつとして「ル・マンで勝つこと」を命題としてワークスカーを送り出したものですから,さながらフォーミュラマシンにフルカウルを被せたカッコウのものが多く登場しました。

また,FIAはGr.Cカーは,3500ccNAレシプロエンジンのみのコンペティションとする方針を打ち出したのです。レースと共に育ってきたロータリーは1990年を最後にGr.Cに出場できなくなったのです。Gr.Cは,各メーカーのアイデアや技術を培うためにそして,その技術を市販車に反映させるために,実験の場として育ってきました。

こういうレギュレーションになってしまっては,勝てるNAエンジンを持たないプライベーター達は参戦する意味もなくなり,撤退を余儀なくされます。ワークスも勝つためには莫大な投資をしなければならず,体力を消耗していくのは目に見えています。あちこちから批判があがりましたが,しかし,ここで,ビジネス性が重視されてしまったのです。ちなみにNA3500ccに統一された’92年,参加台数の減少により,大方の予想通りGr.Cはその幕を閉じてしまいました。

屈辱の1990年ル・マン。

話は戻って,1990年,このロータリーマシン出場可能な最後の年に,マツダはニューマシンを登場させました。R26B型4ローターマシンを積んだ「MAZDA 787」です。

R26B型4ローターは,13J型4ローターとは違う,全く新しい設計によるユニットでした。1ローター当り3プラグ,リアルタイム可変給気としたロータリーで目標の700psを達成するユニットでした。

史上最強のロータリー。R26B・4ローターエンジン

これで,ロータリー最後のル・マン挑戦の準備が整いました。しかし,戦わずして問題が起きたのです。ル・マンのコースの一番の特徴として6kmにも及ぶユーノディエールと呼ばれるストレートがあったのですが,この直線道路に2ヶ所シケインが設けられたのです。

結果,ストレートは最長でも2kmちょっととなり,コーナーが増え,フルブレーキ・シフトチェンジの回数も激増するという事態になりました。突然のコース改修劇に、ストレート重視のセッティングを施した「MAZDA 787」は,シケイン進入,脱出でロスが増えてしまう事態となり,本来のポテンシャルを発揮できないこととなってしまいました。

そして…,アートカラーを施した201号車は,トラブルが頻発,リタイヤ。チャージカラーの202号車は電装系のトラブルが修復できず,翌朝を待たずにリタイヤとなりました。

ここで,老兵「MAZDA 767B」203号車が20位完走。IMSA GTPクラス優勝となり,日本人3人(片山義美選手,寺田陽次朗選手、従野孝司選手)が表彰台に登ったのが唯一の慰めでした。

主催者達のドタバタ劇にメーカー達が翻弄された1990年のル・マンは,モータースポーツというよりも,ビジネスライクなレースとなりました。

ここで,今までの挑戦が終わったと思われましたが,なんと,ロータリーエンジンのル・マン挑戦が91年もできるという朗報がやってきたのです。

雪辱に立ち上がる技術屋。

この1990年のル・マン参戦でマツダ自身もまだまだライバルに追いついていないことを認識していました。勝つには,「5年かかる仕事を1年でやり遂げる」ことを自覚していました。なぜならマツダに残された時間はあと一年なのですから。

「一人一人の知恵と技」「優勝を勝ち取ろう!」

1991年,2台の「マツダ787B」,1台の「マツダ787」は,万感の思いを胸にル・マンにやってきました。

SWC新規格のNA3.5リッターエンジンを積むプジョー905とジャガーXJR14,前回優勝マシン,ジャガーXJR12,王座奪回を目指すメルセデスC11,強豪ぞろいを前に,マツダスピードも負けないレース運びを行っていました。

いざ,出陣!

しかし,この時点でマツダが優勝すると予測した者はほとんどいませんでした。

耐久スペシャリスト・マツダの戦略

予選は順調に進みました。最後にはピットでのタイヤ交換をするほどの余裕もあったほどです。

あけて決勝。飛び出したのはポールポジションからスタートしたプジョー905。それをメルセデスが追う格好となりました。プジョー905は新レギュレーションの3.5リッターNA。チームとしても6時間持てば満足と言ったマシンでした。(ちなみに当時のプジョーの監督は,ジャン・トッド。追いかけるメルセデスのドライバーの一人に,ミハエル=シューマッハ。)

さながらスプリントレースのようなペースでした。

しかし,マツダも負けていません。序盤,NAのマシンを抜くのに戸惑ったものの(この年のレースは,C1クラスのNAマシンが上位スタート。そのあとC2クラスのマシンが並んでいました。),徐々に順位を上げてきました。

順調に周回を重ねるMAZDA787B。

夜になるまでは,プジョー,メルセデス,そしてそれを追うジャガーの動きに視線が集まっていました。

夜のピットも無難にこなす18号車。一時は4位まで挙がりました。

しかし,夜があけると,ル・マンを見る人たちの視線が激変しました。一台のマツダ787Bが,2位まであがってきたのです。1位はメルセデス。

「このまま、2位でゴールすればマツダにとって忘れられないレースとなるだろう。」と言う見方が大半でした。

4ローターの雄叫び

しかし,マツダスピード陣営の考えは違うところにありました。「メルセデスにアタックをかける。」この年しかないマツダにとって,2位は敗北以外の何物でもありません。優勝を勝ち取るためにこのル・マンにきたのですから。

燃費重視でも戦略的にレースを運ぶ56号車。

 

メルセデスを追い抜け!

メルセデスもこの動きを察知したのが,逃げにはいります。逃げれば追う,追えば逃げる。この展開がしばらく続きましたが,とうとう動きが出てきました。メルセデスの走りに精彩が見られなくなってきたのです。

とうとうピットに入るメルセデス。ラジエターのパッキンから漏れが生じ,オーバーヒート状態。マシンは煙に包まれてしまいます。このとき,マツダ787Bとの差は3周。

4ローターの咆哮とともに差を縮める。

しかし,なかなかピットを出ることが出来ないメルセデスと,MAZDA787Bとの差はどんどん縮まっていきます。

そして,午後1時3分。最終シケインをお尻をふり気味にしてフル加速しながらメインスタンドに戻ってきたMAZDA787Bは,甲高く重厚なロータリーサウンドを響かせながら,トップの座に立ったのです。沸き立つピットは同時に今までに体験したことのない緊張感に包まれました。また,マスコミもピットに押し寄せます。まさに胃の痛いが「嬉しい悲鳴」と言った感じでしょう。

ピットに入るごとに注目が集まります。

マツダの優勝は喜んでくれたのは日本だけではなかった。

こうしてMAZDA787Bは,午後4時過ぎ,無事チェッカーを受け,日本車初そして,ロータリーマシン初のル・マン総合優勝を成し遂げることとなりました。

トップになっても,さらに他を圧倒する走りです。

最後に2クールを担当したジョニー・ハーバート選手はゴール後脱水症状でダウンし,表彰台に上ることは出来ませんでしたが,同僚,ベルトラン・ガショー選手,フォルカー・バイドラー選手が表彰台の一番上にたちました。その横には,技術陣が並び,まるで,今までの苦労をみんなの祝福によって昇華してもらっているような光景でした。

こちらは日本人3人がドライブした787.8位に入りました。

そして,優勝の瞬間,マツダスピードのスタッフ以外にも飛び上がってとても喜んでくれた技術屋達がいたのです。

自分達のマシンはすでにリタイヤし,最後の後片付けをしていたプジョーのエンジニアとスタッフでした。

「俺達,フランス人は,マツダが長年ル・マンに挑戦してきたこと,誰よりも苦労してきたことを知っている。マツダこそ,ル・マンの勝利にふさわしいチームだ。」

国籍は関係なく,完走できたことをみんなでたたえあう。それがル・マン。
番外編3 MAZDA787Bとスポーツマンシップ

MAZDA787Bは,ル・マンはもちろん,SWC,JSPCと言った,プロトタイプカー選手権でも大活躍しました。と,言いたいところですが、そうはいかなかったかな?

スプリントレースと化したSWCでは,NA勢のプジョー905,メルセデスC291,ジャガーXJR-14が火花を散らし,耐久仕様のMAZDA787Bはなかなか対抗できませんでした。

メルセデスの前を走っているわけではないのが残念です。

一方JSPCでも,日産とトヨタのターボ勢の争いに注目が集まりました。

しかし,モータースポーツの精神を1番感じさせたのはMAZDA勢ではないでしょうか。

ル・マンのときと比較すると逆カラーになってます。

それは,1991年のJSPC第3戦富士サーキット。決勝では序盤の12周目,和田孝雄選手の駆る伊太利屋ニッサンR91VPが,突然横転,炎上。

そこに,車をとめ,真っ先に駆けつけたのは,MAZDA787Bをドライブしていたジョニー・ハーバーと選手でした。人命にかかわる重大な事故と判断し,「レースの結果よりも,人の命のほうが大切だろう。」と,救助に駆けつけたのです。燃え盛る車を前に,救助を敢行した車はあとに先にもMAZDA787B一台。

和田選手はしばらくはコクピットから脱出できなかったものの幸い,自力で脱出することに成功。

しかし,この時点でMAZDA787Bは,ほとんどのマシンに2周もの差をつけられてしまいました。しかし,ここからがモータースポーツ。ジョニー・ハーバート選手,ベルトラン・ガショー選手ともに他の大排気量ターボマシンと遜色ないタイムを連発。

4位でフィニッシュを受けることとなりました。

とても内容の濃いレースのひとつでしたが,このレースへの参加台数はわずか13台。この辺りから,Gr.Cレースの衰退が始まりだしたのかもしれません。

この情熱の復活を願わずには いられません。