第2章 3ローターから4ローターへ


前人未到のエンジンへの挑戦

マツダ757の活躍の中,ロータリー・エンジニアたちは,新たなパワーユニットを開発しました。

3ローターからもうひとつローターを増やし,13J型4ローター・エンジンを開発したのです。

ローターを増やすと,エンジン全長が長くなります。それによって,エキセントリックシャフトも長くなり,ねじれ剛性などが弱くなってしまう短所が考えられます。

また,エンジンの全長自体が長くなってしまうことも問題です。しかし,技術屋魂はその問題を克服しました。

エンジン全長を極力短くするように改良に改良を重ねました。(Cカーに載せるためには,エンジンがフレームの一部として,また,強度部材として使用されるために,エンジンの全長をできる限り短くして,強度アップも図らなければならなかったのです。)

エキセントリックシャフトの結合も,工夫を凝らしたのものです。

こうして,生まれた13J型4ローター。

ちなみに,一番最初に組み合わされたマシンは「マツダ757E」(Eは実験:Experimentalの頭文字)でした。

FISCOを疾走する MAZDA 757E

「マツダ757」に改良を施し,4ローターを載せて,1987年JSPC(全日本スポーツ・プロトタイプカー選手権)の最終戦,富士500kmレースに出てきたのです。

自動車史上初の4ローターを載せた「マツダ757E」は,快音を響かせながら,周回を重ねていきましたが,なんと最終周でコースアウト。リタイヤとなりました。

しかし,その原因は,エンジンではありませんでした。このことは,マツダスピードスタッフたちの自信につながり,ライバルチームの畏怖になったのです。

 

ル・マンの魔の手が忍び寄る・・・。そして屈辱戦

そして,あけて1988年ル・マン。マツダスピードは2台の新車「マツダ767」と,前年度総合7位につけた老兵「マツダ757」1台を投入しました。

しかし,ここで,ル・マンの悪魔が,「マツダ767」に襲い掛かります。エキゾーストのクラックが発生。長い間ピットに止まったままの状態となってしまいました。

他にも,トラブルがでてしまった「マツダ767」は総合17,19位と言う結果になりました。この年のマツダは,データを蓄積した「マツダ757」がそれより前の15位完走すると言う苦汁を味わってしまったのです。

翌,1989年,これまでの「マツダ767」に改良を施したマシン,「マツダ767B」が登場します。

チャージカラーをまとうマツダGr.Cカーの誕生

ちなみにこの前年末,マツダファンには忘れられないタッグが組まれることになります。「潟激iウン」との契約です。このタッグにより,「マツダ767B」は,今までにはなかった斬新なカラーリングをまとったレーシングマシンとなりました。

レナウンのブランド,「チャージ」のシンボルマークをマシン全体で表現。蛍光オレンジと蛍光グリーンを交互に配色したチャージ・カラーがJSPCでも活躍。この後,模型やチョロQなど,この「マツダ767B」をモデル化したものが次々と売り出されるほどになりました。

ちなみにこのカラー,鮮やかな蛍光色ということで,マルボロカラーと同様,実物を見るのと写真を見るのとでは大違い。このカラーリングを始めて間近で見る人の目をひきつけさせてしまう,そんな魅力もあったのではないでしょうか?

 

予選の悪夢とそれを跳ね返す決勝

さて,話は戻って,1989年,ル・マン。この年出走した「マツダ767B」3台は決勝こそ順調だったのですが,予選では,これまでに無いつらい思いをしたのも事実です。この年,ル・マン特有のウエザーコンディションが猛威を振るいました。13kmもあるコースなので、かたや晴れのコースでも,雨が降っているコースもあるのです。この年の予選時に,この状況が発生し,なんと203号車が,目の前でスピンした車4台に激突。モノコックが変形してしまうほどのダメージを受けます。同じ状況で,201号車がスピン。

しかし,スタッフの懸命の修理で復活!しかし,予選と決勝の間にある1日の休日には,コースで走ることが出来ません。なんと,近所の空港を借りての,チェック走行となりました。

また,残念なことに,201号車を駆る予定だった,片山義美選手が体調を崩し,残念ながら欠場となってしまったことです。しかし,片山選手はレース中でも,レーシングスーツを身にまとい,他の選手を応援しておられました。

明けて決勝は,予選の悪夢がウソのように,順調に周回をしていきました。もうマツダ・スピードチームは,新進気鋭のチャレンジャーではなく,経験豊富な「耐久レーススペシャリスト」となっていました。

淡々とプログラムをこなし,予選では,決勝のセットアップを主として車を仕上げ,決勝では,燃費を確認しながら,スタッフの指示どおりのタイムで,周回を刻む。

車も,事前のテストや,レースで不安なところは,潰しており,まったく快調。

ドライバーやスタッフは,レース中でも,食事を取れたり,メディカルチェックを行えるケア隊の万全の体制。

 

魔の深夜ピット。立ち向かうメカニック達。

この年,マツダは気持ち悪いほど順調にことが進みました。唯一ぞっとしたのは,深夜のピットストップ時の給油。なんと,給油口からこぼれたガソリンに引火,一瞬炎が出て来ます。

とっさにそばで見ていたスタッフの手が給油口をふさぎます!それと同時に出てくる消火器。スタッフは手にやけどを負ってしまいましたが,それだけ,マシンを愛しているのだと思うととても熱くなるシーンです。

レースをビジネスと考えているスタッフだと,こういう野性的な動きは出来ません。

これ以降はまたもやプログラムどおりの周回が重ねられます。唯一のトラブルは,203号車のエキゾースト・ノートのクラック。交換に1時間ほど要しました。また,残り45分というところで201号車のフロントカウルが外れかかり,サブメンバーごと交換。2週遅れのジャガーにおわれていましたが,メカニックの迅速な対応ですぐに復帰。

最後は3台がタンデムでフィニッシュし,またもや日本車最高位の7位,9位,12位を獲得します。

 

フィニッシュ。その後の技術屋魂。

4ローター・エンジンはもちろん,ノートラブル。しかし,このレース後の記者会見において,技術屋魂にぐっと来る言葉を,テクニカルマネージャー松浦国男さん(後に潟}ツダスピード取締役技術部長)は,述べられております。

記者の質問のひとつに,「もう一度,あのエンジンで24時間走れるでしょうか?」というのがありました。記者たちは,「もう一度走れますよ」という喜びを隠せない松浦さんの言葉を期待していたのでしょう。

しかし,松浦さんの答えは「ノー」でした。「あれは,24時間用に作ったエンジン。もう一度あのままで走れと言われても,それは出来ない。」

「レースの世界(で走らせる車の部品の安全率)は安全率1です。24時間用のエンジンは,24時間最高に走れるように追求して,ギリギリの最高出力を出す。それが23時間30分で壊れるようではダメ。その逆に出力を抑えて36時間走れたとしても無意味なのです。」

安全率1。この言葉にジ〜ンときたのは,私だけではないはず(と,思います)。

またもやシングル入賞を果たしたマツダでしたが,あくまでも総合優勝が目標です。

4ローターはこの時点で600psを発生していましたが,ライバルを凌駕するまでにはいたっていませんでした。ここで,さらなる開発が始まったのです。

目標,最高出力700psオーバー(!)。

 

番外編2  13Jを心臓に持つマシン。

アメリカに目を向けると,IMSAレースでのRX-7での活躍が有名ですね。RX-7のIMSAレース参戦はSA22C時代から始まり,FC3Sを使ってのレースでは,とうとう4ローターを投入します。そして,IMSAレース通産100勝をあげる偉業を成し遂げています。

IMSAレースGTOクラスに参戦する4ローターRX-7

これにより,RX-7はアメリカでは好評を博し,マツダのフラッグシップ以上のものとなります。「マツダのRX-7」ではなく,[RX-7のマツダ」なんて言われ方もされていたとか!?

日本では,もちろんJSPCに「マツダ767」,「マツダ767B」がワークス参戦していました。

プライベーターでは,清水正智選手率いるチーム「プレジャーレーシング」が,「Tridentマツダ767B」と言う4ローターマシンを使って参戦していました。この清水選手は普段は歯医者さんをしておられ(スポンサーが,シュガーレスガムの「トライデント」と言うのも納得ですね),そのなかで,全日本選手権がかかったレースも参戦すると言うツワモノなのです。

こちらは,’92仕様のTridentマツダ767B

こちらは,’91仕様のTridentマツダ767B違いがわかる?
(ピンぼけでごめんなさい)

この,「Trident マツダ767B」のメインカラーであるショッキングピンクは,清水選手のカラーでもあります。

ちなみに清水選手はF3000(今のF-Nippon)にも,参戦されてましたが,そのマシンも,全身ショッキングピンクでした。