第1章 2ローターから3ローターへ
マツダ・ロータリー,ル・マンへの挑戦 |
ロータリーのル・マン初挑戦は,ひっそりと行われました。はじめはエンジンのみの参戦。1970年,シェブロンB-16(CHEVRON B-16)に,マツダ(東洋工業)のロータリーを搭載したマシンでの参戦でした。ロータリーは12A(573×2cc)。 日本チームのロータリー搭載マシンもまた,マツダではなく,1973年シグマ・オートモーティブからの参戦。そして,「MAZDA」の車が初挑戦したのはアメリカのIMSAレースで力をつけてきたRX-7をシルエット化した車でした。しかし,まだ,この時点でも,マツダではなく「マツダオート東京」での参戦。 いちディーラーのスポーツ部門(マツダスピードの前身)による戦闘力は,戦闘力と言えるものではありませんでした。また,ル・マンは24時間戦える車だけではなく,チームスタッフをケアする施設が必要なのです。予選落ち(1979年RX-7 252i)や,予選通過も決勝では駆動系にトラブルによりリタイヤなど悔しい涙を流しました。 それでも,RX-7をつかって,マツダオート東京チームは,めげずに参戦したのです。 この技術や魂はやがて,ル・マンを完走(1982年 RX-7 254)することで,感動を呼びます。そしてマツダが動いたのです。
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マツダ・スピード,発進 |
80年代のル・マンはそれまでの偉大なる草レースに大きな変化が訪れた時期でもありました。ル・マンで活躍することで自社のマーケットを拡大しようとする自動車メーカーが,こぞって参戦し始めた時期だったのです。 マツダもしかり。当初はRX-7をシルエット化したものでしたが,Gr.Cカーの活躍により,とうとうマツダもGr.Cカーを投入します。1983年,マツダ717Cの登場です。まだ,Gr.Cジュニアとしての参戦です。エンジンは13B(654×2cc)。パワーはNAで300psを絞り出し,見事Cジュニア・クラスで1,2フィニッシュを果たしたのです。 翌年にはマツダ727C 2台に加え,アメリカのチームがローラのシャーシにロータリーを載せた「LOLA T616-MAZDA」2台を加えた計4台のロータリーマシンが参戦。4台とも見事完走し,ゴール時には4台のランデブー走行でメインストレートに入ってきました。 1985年にはさらに進化したGr.Cジュニアマシン,「MAZDA 737C」を走らせ,この活躍は,7年ぶりのモデルチェンジで話題になった,FC3S RX-7のフルカタログ(60数ページはあった!)にもその活躍と写真が2ページにわたってかかれていました。 しかし,時代をリードしたのは,Gr.C。ポルシェ956,962の登場により,さらにパワー競争が激しくなってきました。もう,2ローターでは勝てない。しかし,ル・マンクラス優勝を経験したあと,目指すは総合優勝。マツダはターボ化も検討していましたが,Gr.C規定では,ターボとロータリーの排気量には換算係数をかけられていたので,これは厳しい。 と言うことで,ローターをもう一つ増やすこととしたのです。 13G型3ローターエンジンの誕生です。
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3ローターの雄叫び |
ル・マンにはIMSA仕様GTPクラスでの参戦です。2台で参戦したラッキーストライクカラーのマツダ757はそのポテンシャルを周囲に印象付けましたが,初期型には発生してもしょうがないトラブルがでてしまい,リタイヤ。しかし,その独特のエキゾーストノートは,車を見ていなくても「あ,マツダが来た!」と,ヨーロッパの人たちを喜ばせるほどになったのです。 よく1987年はさらに改良を施した757 2台が出場。熟成したマシンは順調に周回を重ねていきます。 2時間後には201号車が10位,202号車が13位を走っていました。(予選は201,202号車が27位,28位)
しかし,日本人の(片山義美,寺田陽次朗,従野孝司)の乗る201号車はエンジン不調(異物噛み込み?)によりリタイヤとなり,スタッフに緊張が走ります。 さらにともに夢を見て日本から参戦した,日産,トヨタの戦友はおしくもリタイヤしたなか,マツダ757は総合7位まであがっていました。このまま行けば,日本車がはじめてシングル圏内に入り,しかも7位を獲得する問いうところまで来たのです。 |
運命のピット・イン 3ローターの運命 |
最後のピットイン。私はテレビで見ていましたが,解説者が不吉なことを言います。 「(24時間の前のピットインのころになると,エンジンも疲労がきているから)エンジンがかからないことがあるんですよね・・・(ピットイン時にはエンジンストップ)」 「頼む。かかってくれ」スタッフは誰もがそう思ったでしょう。そんな心配をよそに,エンジンはその存在を誇示するかのように一発でかかります!その音は,テレビでも確かに聞き取れました。 「ピット作業が終わった!エンジンがかかった!」アナウンサーも興奮気味に実況を伝えます。
そして,「MAZDA 757」は,最後の1時間も走りきり,無事,1988年のル・マンを総合7位で終えます。 マツダの3ローターマシンは確かに速くなっていました。しかし,ライバル達は,さらに速く,また,メルセデス,ジャガーがワークス参戦するなど,戦いは激しくなることは一目瞭然でした。 ここで,マツダは更なる決断をしました。 「4ローターマシンを実現し,ル・マン総合優勝を成し遂げる。」
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番外編 |
3ローター・マシンはル・マンやJSPCで活躍しただけではありません。
日本で,一斉を風靡した富士GC,グラチャンマシンにも,87年から3ローターを載せたマシンが活躍。 従野選手が,初年度もにかかわらずドライバーズランキング6位につけるなど,高いポテンシャルを見せ付けました。 もちろん,3ローターは市販車にもフィードバックされ新型コスモにも,3ローター+シーケンシャルターボにより280psをたたき出して搭載されました。 |