小鴨コミュニティセンター

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TEL:0858-28-0964
FAX:0858-28-6034
e-mail:koogamo@ncn-k.net

※利用申請など、センター窓口の受付時間は次のとおりです
月〜金:午前9時〜午後5時
(祝日、12/29〜1/3を除く)

【小鴨の人物史 中井太一郎】 
 「太一車の発明」
 〜稲作技術の進歩に尽くした人〜


小鴨の ひと こと もの
【小鴨の人物誌・中井太一郎】太一車の発明〜稲作技術の進歩に尽くした人 中井太一郎〜 から引用しています。
 


2020/9/16 小鴨地区振興協議会は、
「太一車〜近代稲作の父・中井太一郎〜」を
全国の書店で発売しています。
1冊700円+税で、書店だけでなく、インターネットでの購入もできます。


令和2年9月16日 男のクラブにて、発売記念セレモニーが行われました。



中井太一郎「太一車の発明」特別展開催中(2018.8.1〜)
写真は、2019年1月の取材の様子。
倉吉市小鴨公民館2階にて


 

あなたは、中井太一郎を知っていますか。

   「太一車(中耕除草器)」にその名をとどめ、幕末から明治時代にかけて農業改良に一生を捧げた人、それが中井太一郎です。
太一郎は、一八三〇(天保元年)年、久米郡小鴨村中河原(現在の倉吉市中河原)の大庄屋の家に生まれました。
一八八四(明治十七)年に日本で初めて「田植え定規」を考案し、やがて全国に普及する「正条植え」の先駆となりました。その後も黙々と実験・研究を続け、一八九二(明治二十五)年、六十二歳にしてついに「太一車」を考案し、特許を得ました。この除草器の登場は、重労働からの解放と生産向上に大きく役立ちました。
 
ここは、伯耆の国小鴨村の中河原。一八三七(天保八)年の冬のはじめのことです。
七歳になった太一郎は、天候不順で食べ物が不足し、飢え死にする人がたくさんあったという大飢饉に遭遇しました。
まるで地獄のような光景を目の当たりに見た少年太一郎は、それ以来、万一に備えて食料をたくわえ、さらには食料を増産する工夫をしなければならないと考えるようになりました。
(太一郎)「お父、えらいこった!」太一郎が顔色を変えて家へ飛び込んできました。
(与左衛門)「なんだいや太一郎、そがにおろたえて。」
太一郎は、いぶかる父の与左衛門の手を引っ張るように、家の前の街道へ出ました。
(太一郎)「あれを見て。」
そこには、母と子らしい二人連れがぐったりしています。
(子)「苦しいよう。何か食べたいよう。」
(母)「こらえてごせぇのう。」と、うめく声が聞こえます。
(与左衛門)「かわいさあに。飢えた人だなあ。」と、与左衛門は暗い顔でつぶやきました。
後を追ってきた母の千代が水を飲ませようとしましたが、二人にはそれを飲む元気さえも残っていません。
この年は、夏も寒い日が続いたため米の採れない大凶作で、「飢饉」と言われる大変な年でした。冬になると、腹を空かせ飢えた人たちが食べ物を求めて倉吉の町をめざしてふらふらと街道を通るようになりました。太一郎の前で死んだ母と子も、そのような飢えた人の仲間だったのです。
それから明くる年の春にかけて、太一郎はたくさんの飢えて死んでいった人々を見ました。やせ衰え、もだえ苦しむ人々の姿が、太一郎の目に焼き付きました。
   
このころ与左衛門は広い田畑を持っていましたが、不作続きで暮らしは思わしくありません。
そこで、太一郎が十五歳の時に思い切って田畑をすべて売り払い、紺屋を始めました。
太一郎は、慣れない商売を始めた父を助け、染め物の注文を取りに近くの村々を走り回りました。しかしその甲斐もなく、紺屋の仕事はうまくいかず、借金は増えるばかりです。
太一郎が十七歳の時、とうとう店はつぶれてしまいました。
がっくりした与左衛門は病気になり、借金と七人の家族を残したままこの世を去りました。
   その時、太一郎の頭をよぎったのは、十年前の飢饉のことでした。
(太一郎)「わしは中井家の跡取りだ。どがなことがあっても家族を飢えさせたらいけん。そのためには食べ物を作ることだ。」
太一郎は、再び農業を始めようと心を決めたのです。
(太一郎)「中井家は、代々土に生きてきた百姓だ。それが土を捨てて店なんか始めたばっかりにこがにいなっただ。よし、わしはやるぞ。やって、やって、土に生きぬいてみせる!」
新たに土地を借りた太一郎は、小作農として母や姉、弟たちを励まし、家族の先頭に立って汗水たらして働きました。畑にはいろんな野菜を作り、朝早く倉吉の町へ運んで売り歩きました。
こうして四年経った時、太一郎は父の残した借金を残らず返し、人手に渡っていた田畑を買い戻していました。
(太一郎)「ほんに、この四年間、みんながわしによう付いてがんばってごいた。おかげで、家族が食っていくめどがついたけのう。」
しかし、その頃、不作続きのために自分の田畑を手放して小作農となり、借金や貧しさに苦しむ人々がたくさんいました。
   二十五歳になった太一郎は、藩政改革に努める鳥取藩の田村貞彦に抜擢され、久米・河村二郡の役人に任用されました。
その後は、農業の傍ら在方役人として、貧しい農民たちを救済し、暮らしを向上させるための様々な改革を手伝いました。
やがて、その業績が評価され、大庄屋に任命されました。
また、江戸幕府が倒れて明治新政府ができると、小鴨村はじめ五か村の戸長(村長)を命ぜられ、地方自治に力を尽くしました。
その間にも太一郎は農業を続け、息子の益蔵が大きくなってくると仕事を手伝わせました。
(益蔵)「おとっつあん、暑いなぁ。腰も痛いし・・・。あー、えら。」
(太一郎)「ほんに、田の草取りはえらいけなあ。こがなえらい目するだけ、もっとよおけ米が採れるやり方がないかいなぁー。」
そして、稲の新しい育て方をいろいろと試し始めました。
一八七八(明治十一)年、四十八歳の時に戸長をやめて、これまで続けてきた新しい稲作りの研究に打ち込もうと心を決めたのです。
   (太一郎)「益蔵、今年から苗代を変えてみるぞ。きっとうまくいくはずだ。」
益蔵を顧みた太一郎の目は、きらきらと輝いていました。
その頃、小鴨村をはじめ鳥取県のどこの村でも、稲の苗を育てる苗代は、五メートルに十メートルもある大きなものでした。そこへ厚く籾を蒔くので、苗が伸びてきても手入れが思うようにいかず、どうしても弱い苗ができてしまいます。
その苗は、虫にもよくやられました。太一郎は、手探りでいろいろ試してみました。そして新しく作った苗代は、巾一メートルに長さ十メートルの短冊形のものです。太一郎は、「短冊苗代」と名付けた新しい苗代をいくつも作り、蒔く籾の量をこれまでの三分の一から六分の一まで減らしました。この新しい方法では、手入れも行き届き、丈夫な苗が育ちました。虫に食われる苗も目立って減りました。
その年の秋のことです。
(益蔵)「おとっつあん、短冊苗代の稲は、どこのうちのもんより、ようけ実がなっとるぜ。」
(太一郎)「そうか、そうか。」
その秋、太一郎は益蔵の弾んだ声をニコニコしながら聞いていました。
(太一郎)「益蔵、今度は田植えのやり方を変えてみよう。正条植えだ!」
(益蔵)「正条植えってなんだいな。」
(太一郎)「苗の列を整え、碁盤の目のように植え付けることだがな。
よし、やるぞ。 太一郎は、また新しい試みを始めるのでした。
 

明くる年の春、太一郎の田圃では珍しい田植えが始まりました。
二十一センチメートルごとに結び目のついた長い縄が、畔に張りわたされています。
植え手は、その結び目の所に苗を差し込んでいくのです。
(村人)「中井さんは、えらい手間のかかる田植えをはじめなさったのぉ―。」
(村人)「稲って、そがに間あけて植えて米が採れるだらーか。」
(村人)「何しいそがにまっすぐするだいな。だらずけな。」
変わった田植えをすると聞いて見物に来た村人たちは、一様に首をかしげました。目分量による田植えに慣れていた村人たちには、無駄な手間に思えました。
村人たちがやっと納得したのはその秋の採り入れがすんでからでした。同じ太一郎の田圃でも、正条植えをした田圃と今までどおりの田植えをした田圃とでは採れ高がぐんと違ったからです。
正条植えをすると、日光がよく当たるので稲の伸びがよく、仕事も楽になるので手入れが行き届くからでした。
それでも村人たちは「正条植えは手間がかかり過ぎる」と言って、なかなか手を出そうとしませんでした。

 
 

五十三歳になった時、太一郎は、家の仕事を全部益蔵に任せました。
それは、自由な農業実験や、いろいろな土地の農業のやり方を見て研究に取り組むためでした。
そして、自分が工夫した稲作りを多くの人たちに話して回りました。

 

翌年、太一郎は日本で初めて「田植え定規」を考案しました。
三人植え用の田植え定規は、長い竹に、長さ一メートルほどの竹を二十一センチメートルおきに十三本通したもので、短い竹につけた目印の処に苗を植えていきます。
これは、正条植えの手間を省くために工夫したものです。それでもまだ「正条植えは手間がかかる。」と言って広まりませんでした。 
(太一郎)「どうしたものか。よい思案はないものか。」
太一郎の嘆きは続きました。

 
  ある夏の暑い日のことです。
太一郎は、益蔵が田打転がしを押していく姿を何気なく眺めていました。
長い柄の先にぐるぐる回る木の軸がつけられ、それに「カニの爪」という鉄の刺が沢山打ち込まれたもの―それが田打転がしです。これを押して歩くと、雑草を取るのと一緒に田圃の中起しができます。福岡県の農民が作り出したというこの田打転がしは、その頃鳥取県の農家でも使われていました。
(益蔵)「おっ!。」
今まで、ぐいっ、ぐいっと調子よく進んでいた益蔵の田打転がしが、急にガクッと止まりました。かがみ込んだ益蔵が、しきりに何かしています。
(太一郎)「ああ、また、稲に絡んだな。あれが、田打転がしの泣きどころだ。」
その時、太一郎の頭に何かがハッと閃きました。
(太一郎)「そうだ、あれをもっとええものにしてみよう。草取りも捗り、収穫も多くなるぞ。」
太一郎は、暑さも忘れて畔に座り込み、じっと考えに沈みました。
 
 

それからは、図面を引いては鍛冶屋に行き、鍛冶屋が作ったものを押してみてはまた図面を引く、ということが何十回となく繰り返されました。
こうした努力がみのって、ついに一八九二(明治二十五)年、太一郎は六十二歳にして新しい「田植え転がし」を完成させました。
カニの爪は今までと同じですが、その上には、カニの爪が稲に絡まないように覆い金が附けられています。また、カニの爪のうしろには、かきおこした土をならす羽根車が取り付けられています。
(太一郎)「どうぞ使ってみてください。」
(村人)「こりゃ、たいしたものだ。楽に草が取れる。」
(村人)「もう、田圃に四つん這いにならんでええ。」
一斉に、村人からどよめきが起こりました。そして、太一郎の田植え転がしは、稲に絡まることがないので、田の草取りが捗り、大人の男なら五時間で七〇アールの仕事が出来ます。これまでのものの二倍も仕事が捗るというので、人々は争って太一郎に注文しました。
誰言うとなく「太一車」と呼ばれるようになったこの田植え転がしの評判は上々で、やがて、鳥取県はもとより、日本国中に広まりました。

 
  太一車は、正条植えをした田圃では特に仕事が捗ります。
「手間がかかるから。」と正条植えを渋っていた農民たちも、今度は田植え定規を使った正条植えを始めるようになりました。
近くの村々から「指導に来てください」と頼まれ、話をしに行く太一郎にもますます張り合いが出てきます。
こうして、「太一車」の普及は、農民たちの作業や生活を大きく変えていきました。
 
  一八九八(明治三十一)年、太一郎は今までの稲作りの研究をまとめて「大日本稲作要法」という本を出しました。
そして、太一車は、その後も改良が加えられ、全国各地に広まっていきました。
太一郎は、高齢となっていましたが、東北、四国、九州へと足を伸ばし、稲作の講演をして回りました。
(太一郎)「わしはまだ、土に生きぬいたとはいえん。わしの仕事は、まだこれからだ。いつ飢饉が来ても困らぬように、もっと米の収量を上げていかなければ。」と、晩年まで稲作技術の進歩に情熱を燃やしました。
彼の身なりは、いつも質素でした。講演先でも、出迎えの人が講師中井を見つけるのに苦労したというエピソードも残されています。
また、旅館でも粗末な扱いを受けることがありましたが、意に介さないでいつもにこにこしていたといいます。
 
   
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