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西郷の概要
西郷の概要  
位置 世帯、人口 集落の形成
西郷村の誕生 西郷の郷 西郷村から倉吉市へ

位置
 東経133度51分19秒、北緯35度25分58秒に位置するのが、西郷公民館である。南北4,940m、東西の最大幅3,520m、総面積6,107,501.41㎡(市税務課資料)の広がりをもつのが、鳥取県倉吉市西郷地区(旧西郷村)である。

世帯、人口
 この地域の中に、10の集落(自治公民館)と、1つの事業団地(広栄町=倉吉総合卸センター)がある。平成8年6月現在、西郷地区の総世帯数は1,625戸。人口は、男子2,185人、女子2,420人、合計4,605人。倉吉市内12地区の内、6番目の人口規模となっており、農業農村地帯から、近年急速に市街地化しつつあり、今後も当分の間、この傾向は続くものと予想される。

集落の形成
 太古の稲作に最も大切なものは、日当たりや運搬道よりも水が何より第一であり、その安定した水は谷間の涌き水であったから、自然に稲作の安定収穫を求めて谷間から集落が始まり、自然災害への対応能力の向上とともに次第に平野に発展していった。
 古代の行政区分は、唐の制度をまねて国・郡(以前は評)・郷であり、当時の部落は未だ行政単位ではなかったが、集落のことを村として記し残されている。大化の改新で行政最末端単位として50戸を一里とし(24戸未満を余戸)、のち、里は郷と改称され、今日まで残る伯耆国河村(加波無良)郡西郷となっている。平安中期には郷制が崩れて集落は村として行政単位となり、中世では郷と並んだ村落呼称となり、江戸時代には行政組織の基盤的存在となった。明治以降は大原~山根までの旧村を纏めて西郷村としたので、部落の旧村と、旧村の合併で出来た新しい西郷村の村と、混同されないように旧部落名を大字とし、江戸期の地検帳などの小名・下げ名・一筆書きなどは、大字に対する字とか小字となった。
 もともとの集落形成は、安定した水で、米の安定収穫ができる谷間から発展して来た古い歴史を有すると思われる。栗尾・大原から山根まで、たび重なる洪水などを避けた為か、住居は山谷の麓の小高い所に集中している。(上余戸部落は、18世紀前半頃まで、小学校上流に隣接していた。)
 平地に広がる山根茶屋が、いつの頃に集落を形成したのか、明らかでない。橋津・上井・倉吉と通じる倉吉往来街道沿いに、各地から人が集まり、次第に住みついたことによるであろう。その証拠と思われるものに、昭和20年代以前からの住民の古き出身地が、県中部地区のあちこちの町村に散らばっていることである。上井から倉吉・三朝往来の分岐点にあり、宿場的要素をもつ街道町であったのではなかろうか。

西郷村の誕生
 明治22年(1889)、町村制が施行された。それまでは、各々の集落が独立して、伯耆国河村郡何々村と称していた大原・栗尾・上余戸・下余戸・八屋・伊木及び山根の7村によって、河村郡西郷村が誕生した。寛保2年(1742)に記されたとする「伯耆民談記」によると、河村郡は伯耆国の東方にありて、他の諸郡は皆その西に並べり。当郡の邑里は多くは河に連接したる故に、河村郡と云う。村数都合103ヶ、郷庄を以てこれを包ねたり。
 東郷(古へ多駄郷と称す)13ヶ村(略)。この河村郡を二分して、西郷より北側を河村郡の北、即ち「河北」。三朝町を「河南」と俗稱された。
 上西郷・六ヶ村・伊木・八屋(古へ屋富)、下淀・上淀・栗尾・大原
 下西郷(古へ日下庄と称す)、六ヶ村・山根・上井・海田・福庭・清谷・田尻とある。

西郷の郷
 『西郷』とは、鎌倉中期(1250頃)には明確にみえる郷名である。正嘉2年(1258)に作成された「東郷庄下地分絵図」によると、東郷庄(現在の東郷町)の西側の山から天神川に至る間の清谷辺の地に「西郷」と書かれている。さらに天神川を挟んで西側には北条郷、西郷の南に竹田川を逆上れば竹田(旧竹田村)と記されている。河村郡の東郷に対する西郷の呼称であったものと推測され、元は「河村東郷」に対して「河村西郷」と呼んでいたであろう。平安末期、康和5年(968)の銘をもつ「倭文神社経筒銘」には、既に山陰道伯耆国河村東郷とあり、この地域の荘園化とともに東郷庄が形成され、これに対して、西郷と呼ぶようになったと云われている。

西郷村から倉吉市へ
 明治29年になると、伯耆国の河村・久米・八橋の東伯耆三郡が合併して「東伯郡」が成立したことにより、「鳥取県東伯郡西郷村」に変更され、57年間続いた。
 昭和28年10月1日、倉吉町を中心とした2町6村2部落が合併し、倉吉市西郷地区(旧西郷村)となる。但し、公には西郷地区と云う地名はなく、昔ながらの西郷を総称する俗名である。倉吉市はその後、昭和30年5月に灘手村を編入し現在の市域が確定した。
 倉吉市発足当時、西郷地区では、山根茶屋が山根から分離独立(年代は定かでないが、明治の頃か)して8部落で構成していた。その時の世帯数423戸、人口は2,292人(男1,112人 女1,180人)であった。昭和42年6月、耕地整理にあわせた市の住宅政策によって、上余戸地区に市営住宅団地(現上余戸住宅自治公民館)が完成し、数年後に上余戸から分離独立した。この時の世帯は22戸であった。昭和46年12月には、大原地内の一角に協同組合倉吉総合卸センターが開設され、広栄町と命名されて1つの行政区域(大字の区域)を形成した。しかし広栄町は、卸商業を主とする町で住宅等はなく、一般の町内や集落とは内容を異にしている。さらに、昭和57年6月上余戸の字奥小山付近一帯が、地区の要望により民間企業によって大規模住宅団地として開発された。昭和60年7月、18世帯で新しい集落が誕生し、現在の虹ヶ丘町を形成した。

出典:西郷誌より


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