太古の稲作に最も大切なものは、日当たりや運搬道よりも水が何より第一であり、その安定した水は谷間の涌き水であったから、自然に稲作の安定収穫を求めて谷間から集落が始まり、自然災害への対応能力の向上とともに次第に平野に発展していった。
古代の行政区分は、唐の制度をまねて国・郡(以前は評)・郷であり、当時の部落は未だ行政単位ではなかったが、集落のことを村として記し残されている。大化の改新で行政最末端単位として50戸を一里とし(24戸未満を余戸)、のち、里は郷と改称され、今日まで残る伯耆国河村(加波無良)郡西郷となっている。平安中期には郷制が崩れて集落は村として行政単位となり、中世では郷と並んだ村落呼称となり、江戸時代には行政組織の基盤的存在となった。明治以降は大原~山根までの旧村を纏めて西郷村としたので、部落の旧村と、旧村の合併で出来た新しい西郷村の村と、混同されないように旧部落名を大字とし、江戸期の地検帳などの小名・下げ名・一筆書きなどは、大字に対する字とか小字となった。
もともとの集落形成は、安定した水で、米の安定収穫ができる谷間から発展して来た古い歴史を有すると思われる。栗尾・大原から山根まで、たび重なる洪水などを避けた為か、住居は山谷の麓の小高い所に集中している。(上余戸部落は、18世紀前半頃まで、小学校上流に隣接していた。)
平地に広がる山根茶屋が、いつの頃に集落を形成したのか、明らかでない。橋津・上井・倉吉と通じる倉吉往来街道沿いに、各地から人が集まり、次第に住みついたことによるであろう。その証拠と思われるものに、昭和20年代以前からの住民の古き出身地が、県中部地区のあちこちの町村に散らばっていることである。上井から倉吉・三朝往来の分岐点にあり、宿場的要素をもつ街道町であったのではなかろうか。 |