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地 形
地 形
権現山 平床山  大日山  稜線の展望 

権現山
 西郷地区を地形的に区分するとすれば、大原地区・余戸地区・下西郷(八屋~山根)地区と、山形的に仕切られた3つの区域となる。地区内の最高峰は、栗尾の権現山(315m)である。この権現山は歴史的にも、戦国時代に於ける羽衣石城攻防の重要拠点であり、近年(昭47)では山陰放送・山陰中央テレビの、電波発信基地となり、その後には建設省のマイクロ通信アンテナ・携帯電話アンテナも建設されている。この頂上から三朝・東郷・羽合・北条・倉吉市街を眺める景観は素晴らしく、昭和48年の倉吉市公募投票による、新倉吉八景の1つにも選定されている。
平床山
 権現山から北へ峰伝いに、獣道を下ると平床山(228m)に達する。緩かなスロープの芝生・灌木の山で、戦前(昭20)までは、スキー場として知られ、山小屋も建てられていた。東伯郡のスキー大会をはじめ、倉吉中学(現東高)のスキー訓練など、冬期には多くの人で賑わった。戦中戦後(昭20年代)この山も開墾され、食糧増産の一助として、サツマイモなどが栽培された。
 倉吉市合併に伴う村有林の開放により、部落経由で個人に払い下げが行なわれ(昭29)た為、一部造林も行なわれたが、管理が行きとどかず、現在では松林となりスキー場の面影は全く見ることができない。

大日山
 平床山をゆるやかに下れば、大日山(161m)に出る。この山も、村有林開放の頃までは、小木芝生の広場があり、五本の老松が聳え(後年松くい虫の被害で枯死した)その根元には、大日如来の石仏が一体安置され、近くには清水も湧出していた。大日山から眺める倉吉方面と東郷湖周辺の景色は、特に絶景である。登山者や、朝草刈りの農家の人々など、足を止めて石仏を拝み、素晴らしい眺めに一服の休息をするなど、多くの人々から親しまれた山である。終戦後は青年団が管理したが近年は手入れする人とてなく、荒れるがままで、昭和62年頃には石仏も行方不明となってしまった。
 この山の再興を願って昭和末期から、倉吉青少年育成協議会などが整備を図ったが不十分であり、平成6年から西郷地区振興協議会を中心に、小学校PTAの協力もあり、本格的整備に着手した。急坂には段々を設け、分岐点等には案内標柱を建てた。大日山頂上には、草木を片づけて広場を再生し、石造の方位盤を設置した。さらに平成9年12月には地区民の浄財を集めて大日如来の石仏を再建した。

稜線の展望
 権現山・平床山・大日山は、稜線伝いに細い山道でつながり、戦後までは小学校でよく遠足に出かけた。歩きながら、“大日山・平床・権現さん”と、先頭の方から、誰とはなしに大声を上げれば、皆んなが調子を合せて連呼し、元気づけながら歩いたものである。この稜線は、東郷町との境界に位置しており、倉吉側と東郷側を一望にすることができる。西の倉吉側には、打吹山(214m)を眺め、倉吉市街地の屋根瓦が光り、倉吉盆地には竹田川と小鴨川が、山根茶屋の西側で合流して天神川となり、一直線に日本海に注いでいる。その遥か向うには、大山の峰々が連なり、南方には蒜山三座がかすんでいる。東側の東郷町周辺では、歴史を偲ばせる羽衣石城が望まれ、東郷湖、テレビ電波塔送信基地の鉢伏山・伯耆一の宮の鎮まる御冠山、さらには、橋津の古戦場馬の山が展望される。

出典:西郷誌より



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