「Bouvier Des Flandres (Pet Love)」
著者 Robert Pollet
出版社 Interpet Publishing
書籍番号 ISBN:1903098866
発行日 2002/08/01
M様から、本をいただき、HPをお願いしている方に翻訳もお願いいたしました。紙の質も良くブービエの写真も綺麗に映っていましたが、HPには書籍内の写真を綺麗には載せられないので、入れておりません。ごめんなさい。私自身は、過去の歴史にこだわって繁殖を始めた訳ではありません。単にブービエ・デ・フランダースが、私の好きなタイプの犬だっただけです。
JKCショーにだしても、恥ずかしくない犬・健康な犬を作りたいと思っています。
***************************************翻訳に付きまして、もしかして、読み取り間違いがあるやもしれませんが、
あしからず お許しくださいね。                                プチひまわり


ブービエの歴史

多くの犬種の正確な起源は決して書物で裏付けされることはなく、または歴史の中で埋もれてしまうものです。なぜならばこれらの血統は純血種としての関心が高まる前に既に何世紀も経っているからです。実際にその血統の歴史が明らかになり、進化が簡単に書物に裏付けされているものもあります。幸運にもブービエ・デ・フランダースにおいてはその種の始まりと近年の歴史においては多くの情報が入手できます。しかし正確な起源を明らかにすることはまだかなり難しいことでもあります。
<名前の由来>
ブービエとはフランス語で牛を世話する人を意味する言葉です。よってそれは牛追い犬と、語源としては乳牛犬も意味します。これはオランダ語の Koehondと同じ意味を持ちます。家畜犬として使われる多くの他の犬種がありますが、そのどれかを言う時に大抵「ブービエ」と言われるのはブービエ・デ・フランダースのことです。たくさんの独特のフランドル名がブービエに与えられています。たとえば「Boever(ブーバー)」(フランス語のブービエから)。刈り込んだ粗い毛を指す「Pikhaar」(Pick hair(ピックヘアー))または‘Pick(ピック)。そして「Vuibaard」(汚れた顎ヒゲ)、もちろんそれはブービエが水を飲む時に濡れて、汚れてしまう顎ヒゲや口ヒゲのことを言っています。

<ブービエはどこからきたの?>
完全な公式名称はブービエ・デ・フランダースで、それはフランドル地方の牧畜犬を意味します。オランダでは「Vlaamse Koehond」(フランドルの乳牛犬)や「Vlaanderse Veedrijver(フランドルの牛追い犬)と名づけられています。ブービエはその名前が示すようにフランドルが原産地です。フランドルは中世の間、現在のフランスのノード県や東フランドルと西フランドルのベルギー地方、そしてジーランドのオランダ地方まで領土があった国でした。ブービエはフランスばかりでなくベルギーでもあったフランドルが発祥地なので、その血統はベルギー産とフランス産の両方あると考えられます。その結果、ベルギーとフランスはブービエの公式犬種標準を維持する責任があります。

<犬種の発祥地:修道院>
修道士がSt.Bernard(セントバーナード)やベルギー犬種のSt.Hubert Hound(Bloodhoudブラッドハウンド)のように明確な犬種に聖徒名を与えることは一般に知られています。主要ベルギーカナイン機関のルイス・ヒューバートは1948にベルギーマガジンL’Aboi’the bark(吠える)の意味)にブービエの歴史を掲載したおかげで、修道院Ter Duinenの修道士達がブービエの最初のブリーダーであることがわかります。 その時修道士は、ブービエはあまりにも品がなく田舎者風(粗野でがさつ)であるので守護聖人の名を与えることが出来ないとしました。
 修道院Ter Duinen1107年にフランドルの西海岸のCoxydeに設立されました。それはフランドルで一番大きく有名な修道院でした。修道士達は自分達の艦隊を持っており、彼らは特別に大きく、灰色のぶちで、粗い被毛の猟犬のようなディアハウンドやアイリッシュウルフハウンドと言われた犬をイングランドから輸入しました。輸入された犬は地方のファームドッグで飼育されました。精選された飼育の中で、大きくて粗い被毛の犬が作り出され、それがブービエの先祖であると考えられています。これらのブービエの先祖は優秀な番犬や警備犬であり、そしてとても有能な牛追い犬でした。

<初期のブービエ:家畜犬・万能犬>
1900年まで、ブービエの進化についてはあまり知られていませんでした。ブービエは普通の農夫の手伝い犬であり、家畜犬でした。彼が送った生活は決して羨まれるものではなく、幸せではなかったと20世紀初頭に生きた人々から知ることができます。実際それは全くみじめな生活だった!彼は昼夜働かされ、その仕事は困難で疲れ果てるものでした。しかし彼はその体力と忍耐、そして風雨に耐える被毛のおかげでその困難な仕事をすることができました。そしておそらくそれは、とりわけ確固たる精神力と気質のおかげです。
 ブービエの仕事には警備や牛追いや運搬そして撹乳がありました。荷車用の牛のように彼はミルクとチーズカートを引っ張ったり、臼石を回したりしました。怪我の防止と、引っ張り作業に必要な備品である革帯を簡単に装備する為に、農夫はブービエの尻尾を切り詰めました。ブービエの耳は、それはペットではなく作業犬であることを表す為に短く切られています。なぜならば当時ペット犬だけが課税されたからです。ブービエは仕事をしない時は飼い主の家には入れませんでした。今では法律で禁止されている番犬として戸外で鎖に繋がれたバンドッグ(bandogでした。

地上の楽園を手に入れたブービエ>

家畜犬ようなブービエの生活はみじめで哀れなものでした。諺どおりのまさに ドッグズライフでした。沢山のブービエの愛好家が今不満を言っています。「彼の荒っぽさは何処に行ってしまったのか?」荒っぽいとはブービエの被毛とふるまいと性格を言っています。ずっと昔、ブービエが出会った全ての物や人は荒っぽく乱暴とされているものでした:田舎、天候、農夫、彼のしてきた仕事。その時どうやって彼はこれら全てのことをやってのけて、生き残れたのでしょうか?もちろんそれは彼自身を荒っぽくすることによってです。しかし、何故彼は今柔らかくなったのでしょうか?
 近年の進歩した生活状況のため、彼が実際に変化したこを私達はある意味受け入れることができます。彼の被毛は彼の性質と一緒に柔らかくなったことは事実です。今彼の険しさと荒っぽさは一層なくなり、そしてずっと友好的になり、おそらく何よりも先ず ファミリードッグとなっています。しかしながら、彼は今ずっと幸せであると確信します。美味しい餌を与えられ、きれいに手入れされ、上手に飼われています。これは彼の先祖が不満を言わずに耐えしのび、忠実に、進んで沢山の困難な仕事をやったことへの報酬です。彼は地上の楽園を手に入れたと思います。

<ブービエの一層の進化>
その犬種の起源と進化の文献はとても断片的なものですが、しかし20世紀初頭、第一次世界大戦前にブービエはブリアードとピカディ・シェパード(Berger de Picard)の混血であると分かりました。1910年5月2123日にブリュッセルで重要なインターナショナル・ショーがありました。ブービエ犬種は、雄レックス(Pic x Bella)と雌ネリー(Beer x Bella)の二匹の犬によって代表されました。それらは二匹ともGhentから来たエル・パレット氏が所有していた犬です。その二匹の犬はエル・ヒューバートによって審査されました。ヒューバートはこれらの犬の性質を印象づけました。そのショーの後、38年前の1948年のL’Aboiで掲載された記事では、彼はこの二匹の犬を審査したことを、その時まだ覚えおり、この犬のすばらしい性質を述べ、そして何十年も前に彼が言ったことを繰り返しています。ブービエの外見は岩のように粗野で田舎風で、決してエレガントではない。パレット氏は雄親のレックスと雌親のネリーとで、現在のブービエの基本的血統ができあがったと思っています。その後何年もの間、様々なタイプと種類名が存在しました。しかし主には二つのタイプで、すなわちパレットタイプとモーマンタイプです。パレットタイプは小鹿色かグレイのぶちで広い胸と丸い肋骨、そして幅広の頭蓋を持った短い頭と突き出た口吻を持っています。大きさは6065センチ(23.5〜25.5インチ)。しかしながら、彼らはしばしば良いプロポーションに欠けていました。その広い頭蓋や突き出た口吻の頭部の為に調和がとれていなかったのです。
 モーマン氏はRoeselare(Roulers)に住む農夫でした。彼のブービエはRoulersタイプです。大きい犬で、サイズは65から70センチ(25.527.5インチ)あり、短い胴体とその広い口吻によって特徴的な頭をしていました。一方では、彼らは胸の深みに欠け、足が高く、黒か黒のブチ色をしていました。
 完全の為に第三のタイプも言わなければなりません。興味深さはないですが、そのタイプは存在します。現在のブービエの基礎となるものです。いわゆるBriardタイプになります。
 ブービエ犬種の進歩を妨げる激論が何年かありました。論争の要点はその特質、被毛の色や大きさに集中しました。パレット氏はモーマン(大きくて黒い)の犬は明らかにブービエ・デ・フランダースではなくてブービエ・デ・ローラーズであると主張しました。

 これらのタイプの全てはブービエの構成に貢献しています。正確に言うことはどれほど難しいか。外見上ラフな被毛はパレットタイプ、そしてダーク色でコンパクトな体(正方形(スクウェア)の体と広々とした空間を作る肋骨そして強い頭部)はモ―マンタイプによってその血統の中に入っています。それは現代のブービエ・デ・フランダースの出身は、Roeselare(ローラー)GentGhent)の市が其々にある西フランドルや東フランドルの今のベルギー地方であることをはっきりさせています。
 その起源と犬種の単一性に関しての混乱や意見の相違は犬種標準の進歩に反映されています。1912年にベルギーケンネルクラブ(FGIには加入していない。だがFGIはベルギーにその本部がある)によってブービエ・デ・フランダースとブービエ・デ・ローラーズの最初の標準を進展させました。1912年にはブービエ・デ・ローラーズの標準がロイヤルソサイティ セントヒューバートによって書かれています。この標準は黒色は許されていました。1913年にブービエはフレンチソサイティ セントラルカナインによって評価されました。しかし、それは彼らが言うブービエのタイプを明確にはしていませんでした。

<世界大戦の影響>
世界大戦はブービエに大きな損害をもたらしました。しかし幸運にも献身的なブリーダーのおかげで、その種は生き残りました。1912年での犬種標準の採用に従っての急速な発展が第一次世界大戦で止まってしまったのです。1918年には実際に殆ど全てのブービエのストックが取り除かれ、また、その生まれた土地は完全に荒れた戦地になってしまいました。たった数匹のブービエだけが生き残ったのです。おそらくこの戦争中、ブービエは軍用犬として、もっと正確には救急犬やメッセンジャー犬として使われていました。私達はその事実にある種励まされます。
 第一次世界大戦後、ブービエ犬種の再生はとても難しかった。全てのドッグショーでたった数匹のブービエがお目見えできただけです。しかしながら、特別な記録に残る1920年のアントワープでのオリンピックショーでは16匹のブービエが出場しました。その中には1921年にベルギーチャンピオンになり、いつも優勝した伝説の雄犬ニックもいました。ニックの出生は何も知られていません。しかし彼はPoperinge市(南西フランドル)の近くに住むブービエ愛好家に所有され、そして戦争中にベルギー軍の獣医の陸軍大佐(後の少佐)バーブレイによって買われたことが分っています。ニックは軍用犬として、特にトレンチ(塹壕)犬として訓練されました。そして三年間勤め上げました。戦後彼はSottegemケンネルへ行き、少佐バーグレーの弟に所有され、その後デ・ラ・Lysケンネルへ行き、グリソン氏に所有されました。この犬舎は次の戦争中には最も重要なところでした。そして、第一次世界大戦の数匹の生き残った犬の一匹であるChニックはこの犬種の有名な先祖であり、現在のブービエ・デ・フランダースの標準サイアー(雄親)であると考えられています。ニックは1926年に死にましたが、彼はたくさんの価値ある子孫を残しました。
 戦後、その正しいブービエのタイプや被毛、特にブービエのタイプを選んだり飼育したりすることを必要とする論議と意見の不一致は止みませんでしたが、しかし、進展がありました。1937425日にフランス―ベルギーコミッション、それは両国の標準審査員から構成されていたのですが、彼らは共同でたった一つのブービエ・デ・フランダースを正式な標準としました。
 不運にもその論争と議論に終止符を打つべく新しい標準や全ての努力は満場一致ではなく、その後三年も経たずに、第二次世界大戦が勃発しました。この戦争はまたブービエの生き残りを死闘する期間となりました。ブービエ犬種の荒廃はひどいものでした。結果はとても深刻で、その種の存続が危険にされされる状況が続きましたが、再びブービエ種は生き残ったのです。
 その犬種の再生はゆっくりでした。しかし、ブリーダーはブービエの正式タイプへ向かってどんどんと進化させていきました。その犬種が当然に「遺伝子的修正」(型において)を考えられる時、求められる外観やその型に関して意見が一致するまでに、長い時間がかかりました。1963年頃には、ベルギーで共同で一つの標準を採用したことによって、ブリーダーの努力は成就したのです。その標準は1965年にサイノロジカル国際連邦によって承認されました。


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