論理の限界

麻雀をどう打つべきかを、言葉に乗せて他者に伝えることは、かなり難しい作業である。と言うのは、車の運転などと似ていて、論理をつないで、言葉に乗せる作業にあまり馴染まないからである。私たちは、先方に見えるカーブをどう曲がるべきか、目隠しの運転手にうまく伝えることが出来るだろうか。麻雀をどう打つべきかについて論じることは、これと同じ要素が強い。多くの情報を瞬時に読み取り、アクションに移す。どう情報を読み取るべきか、その情報をどう処理すべきか、そして、どういう行動に結びつけるべきか?これらのことを、言葉や論理に乗せようって話である。まったくもって不可能ではないが、歩くロボットや階段を上るロボットのように、ある種のぎこちなさを伴うし、限定的なアクションにしか結びつけることしか出来なくなりがちだ。それというのも、判断すべき情報が、多岐に渡るし、情報も局面々で軽重の様相を変えるからだ。

言葉に乗せたり、論理に乗せたりする作業とは、ドロドロに腐った魚を水の中から取りだして、骨格だけを見ながら、「これが魚です」って言う行為に似ている。確かに大事な部分を説明してはいるが、骨格だけで魚を論じりことには無理がある。

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